元祖歌って踊れるジャニーズとして、当時一世風靡した
北 公次(きた こうじ)さん
若い頃はとてもかわいらしいイケメンな顔立ちで
女性ファンからとても人気があったであろうことが伺えます。
しかしそれとは裏腹に
若い頃から非常に苦労をされた人物としても知られており、
壮絶な人生を歩まれていました。
また16歳のときに、ジャニー喜多川氏と出会い
同じ屋根の下で暮らし始めたことにより
おぞましい体験をしていたことも明らかに…
今回は、北公次さんの若い頃のイケメン画像、
そして若い頃のエピソード
ジャニー喜多川氏との出来事などについて
調査した内容を紹介させていただきます。
北公次のプロフィール
まずは簡単に、北公次さんのプロフィールについて
紹介をさせていただきます。
・名前:北 公次(きた こうじ)
・本名:松下 公次(まつした こうじ)
・生年月日:1949年1月20日
・命日:2012年2月22日(没年63歳)
・出身:和歌山県
・経歴:『フォーリーブス』のリーダー
・趣味:映画鑑賞、切手収集
・特技:バク転
北公次さんはルックスもさることながら、
運動神経が幼少期から抜群に良かったことでも有名でした!
体操でオリンピック選手と期待されるほどの運動神経!
中学生のときでは、体操で学内随一の才能と見込まれており、
将来はオリンピック選手としても期待がされていました。
ちなみに現在におけるジャニーズが、
を築いたのが、北公次さんであると言われています。
中学校時代は体操で学内随一の才能と見込まれ、
地域では将来のオリンピック選手と期待された。
ミュージカル活動を基本とした
歌って踊れるジャニーズのスタイルを継承。
引用元:Wikipedia
現在まで継承される
歌って踊れるジャニーズの
原型を作られた
偉大な方だったんですね
北公次の若い頃・経歴
北公次さんの若い頃ですが
とてもかわいらしいイケメンな顔立ちをされています。
しかし、当時の生活環境はかなり壮絶で
中学を卒業してすぐに
名古屋の玩具問屋へ同級生と一緒に就職をします。
そこからも寿司屋で住み込みで働いたり、
鉄鋼製作所でも働いたりと
若い頃はかなり職を転々とされていたそうです。
同中学卒業後は
直ぐに名古屋の玩具問屋へと集団就職。
寿司店の住みこみ店員や鉄工場の住みこみ工員など職を転々とする。
引用元:Wikipedia
当時の玩具問屋の画像(イメージ)
そんな中、家電メーカーの工場に勤めていたとき、
テレビで初めてジャニーズを視て、その存在を知り
「俺なら得意のアクロバットを駆使して
もっともっと人気スターになれる」
と思い、ジャニーズになるためのきっかけを求めて
当時大阪にあったジャズ喫茶『ナンバ一番』に通い詰めるようになります。
家電メーカーの工場に勤めていたある日、
テレビで初めてジャニーズを視て
「俺なら得意のアクロバットを駆使して
もっともっと人気スターになれる」と確信し、
きっかけを求めジャズ喫茶を彷徨い歩く。
引用元:Wikipedia
中学卒業してまだ間もない時期で
これだけの行動力があったのがすごいですね…
北公次_若い頃のイケメン画像
北公次さんの若い頃の画像ですが
本当にフレッシュさあふれる
美男子といった顔つきをされております。
このイケメン具合でスポーツも万能!
まさにジャニーズとしてうってつけの人材であったことがわかりますね。
ジャニー喜多川との出会い
ジャニー喜多川氏の若い頃
ジャニーズになるためのきっかけを求めて
大阪のジャズ喫茶を渡り歩いていた北公次さんですが、
『スリーファンキーズ』というバンドのボーイを勤め始めます。
スリーファンキーズ
そしてスリーファンキーズのショーの合間にやっていた映画を
楽屋と舞台の途中にある階段にて
北公次さんが1人で観ていた際に、
とんでもない転機が訪れます!
なんとそこに、当時ジャニーズ事務所の社長であった
『ジャニー喜多川』氏が通りかかり、北公次さんは目をつけられ
「君、ジャニーズが好きなの?
それじゃあジャニーズに会わせてあげるよ!」
といきなりの急展開が発生し、そのまま北公次さんは
ジャニーズの付き人になりました。
いきなり憧れの
ジャニーズの社長から
声をかけてもらい、
付き人にも採用してもらえるって
とんでもないことでしょうね
スリーファンキーズのショーの合間にやっていた
映画をステージの裾で一人観ていた際に
ジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川に見初められ
「君、ジャニーズが好きなの?
それじゃあジャニーズに会わせてあげるよ!」
と楽屋へ誘われ、ジャニーズの付き人になることを快諾
引用元:Wikipedia
そしてそこから、北公次さんは
ジャニー喜多川氏との2人暮らしが始まります。
しかしこれが後に、大きな事件になるとは
思いもよらなかったことでしょう…
※詳細はこの後の章で紹介していきます
『フォーリーブス』のメンバーとしてデビュー!
フォーリーブス
左下が北公次さん
北公次さんは、1968年9月5日に
念願であったジャニーズとして
『フォーリーブス』のメンバーの一員となり、
メジャーデビューを果たします!
時代を感じる画像ですね
また、芸名もこの頃に
と名乗るようになります。
この『北』というのは、
ジャニー喜多川の『喜多』が由来とされています。
1968年9月5日、
「オリビアの調べ」でCBS・ソニーレコード(現在:ソニー・ミュージックレーベルズ)より
フォーリーブスのメンバーとしてメジャーデビュー。
ジャニー喜多川より「北公次」という芸名を授かる。
喜多川の“喜多”が由来。
引用元:Wikipedia
北公次さんは、その持ち前の運動能力を存分に発揮して、
ステージ上にてバク転を披露した最初の歌手として
大きな話題を集めました!
お見事すぎるバク転ですね
元祖歌って踊れる男性アイドルということで
フォーリーブスは、当時の女性ファンから圧倒的な人気を確立し
あの『紅白歌合戦』にも7年連続で出場するという
偉業を成し遂げています。
当時の少女たちの圧倒的支持を得て、
新御三家登場までの時代をつなぐ人気アイドルとなった。
1970年から7年連続で
「NHK紅白歌合戦」に出場している。
引用元:Wikipedia
単独での俳優活動を開始!
さらに北公次さんは、ジャニーズの活動だけにとどまらず
単独での俳優活動も始めるようになっていきます。
多くの連続ドラマに出演を果たし、
一部のドラマでは、主演を果たすほどの実力と人気でした!
■おもな出演作品
・「ボクは女学生」(1973年)
・「ボクは恋人」(1973年)
・「美しき殺意」(1976年)
・「悪魔の手毬唄」(1977年)
・「人間の証明」(1978年)
しかし結果的には、主演の作品はさほどなく、
単発でのドラマ出演が多かったこともあり
俳優の北公次としては、なかなか名を売ることができなかったそうです…
ジャニーズとしてはうまくいっても
俳優としてうまくいくとは限らない
というのがまた複雑ですね…
1970年代に入ると
単独の俳優活動を始め、
1970年代半ば以降はアイドルドラマ以外でも仕事が増えていった。
しかし主演作品は30分のテレビドラマ
「ボクは女学生」、「ボクは恋人」のみ。
連続ドラマレギュラー出演も、
『美しき殺意』や『人間の証明』くらいしかなく、
結果的に俳優としては出演作も本人も話題になったとは言い難かった。
引用元:Wikipedia
『フォーリーブス』の解散、渡米
俳優業にも本腰を入れてがんばっていた北公次さんですが、
なかなか俳優としての人気や認知度は獲得できず
任される役柄や出演時間もどんどん小規模となっていきます。
そして悲しいことに
北公次さんの本業であったジャニーズグループの
フォーリーブスの人気も徐々に衰退していきます。
さらにジャニーズ事務所も低迷期に陥ったことも重なり
1978年8月31日をもって
フォーリーブスは解散することとなりました。
世間からの俳優としての認知や人気の上昇、
フォーリーブスの人気回復には繋がらず
次第に役柄も小さくなっていき、
フォーリーブスの人気も下降しジャニーズ事務所も低迷期に陥り、
1978年8月31日を以って解散した。
引用元:Wikipedia
そして解散と同時に北公次さんは
事務所からの反対を押し切ってジャニーズ事務所を退所し、
ダンス修行という目的で渡米することを決めました。
覚醒剤取締法で逮捕
フォーリーブスの解散後、ジャニーズ事務所を退所して
ダンス修行目的で渡米をした北公次さんでしたが
その目的をなかなか果たせず、帰国をして第一プロダクションへ移籍をします。
しかし、フォーリーブスを解散した翌年の1979年に
で、北公次さんは逮捕されてしまいます。
この流れから察するに
フォーリーブスを解散に追い込まれ、結果ジャニーズを退所し
行き場を見失ってしまった虚無感などから
渡米先でクスリに手を出してしまったように思えますが
当時の芸能関係者によると、
北公次さんはフォーリーブスの人気が衰退していった
1975年頃からすでにクスリを使用していたと語っています。
当時を知る芸能関係者によると、
北さんはフォーリーブスの人気が低迷し始めた
75年ごろからクスリを使用。
覚せい剤取締法違反で逮捕される
79年まで重度の中毒に陥っていたという。
引用元:zakzak
クスリに手を出してしまったことは
決して許されることではないと思いますが
それでも自分のような一般人では理解ができないような
深いストレスや心労があったように感じざるを得ない人生ですね…
暴露本『光GENJIへ』を出版
若くして絶頂期と地獄期を味わうという
かなりの壮絶な人生を歩んでいた北公次さんですが、
ジャニーズを退所してからは、かなり金銭的に行き詰まっていたとされています。
そんなとき、ジャニーズの裏情報を集めるために各地を奔走していた
セクシービデオ監督の村西とおるから
暴露本の出版と芸能界への復帰話を持ちかけられます。
有名な『全裸監督』の方ですね
これを了承した北公次さんは
ジャニーズ事務所、ならびに
ジャニー喜多川氏の不貞行為の暴露を記した半生記
を出版することとなります。
この禁断の内容を書いた書籍はたちまちベストセラーとなり
世間から大きな注目を集めることとなりました。
北公次とジャニー喜多川との関係
北公次さんは中学を卒業後、職を転々としながら
バンドのボーイをしていたときに
ジャニー喜多川氏と出会い、そのままジャニーズの付き人となりました。
そしてそのままジャニー喜多川氏と同じ屋根の下で寝るという
現代ではそうそうないであろう急展開となったわけですが、
これが北公次さんにとって、悪夢の始まりとなってしまったのかもしれません…
ジャニー喜多川が北公次の布団の中へ…
北公次さんの記した半生記によると、
下宿をしてわずか2日目の夜に、ジャニー喜多川氏が
自分の布団の中に入ってきたとつづっています。
そこからは、全身にキスをしたり性器を弄ったりと
相当辛辣な思いをされたことを語っています。
下宿して2日目の夜に、
ジャニー喜多川が自分の布団の中に入ってきた。
そして、数日後には、アイドルデビューを約束するような言葉を吐きながら、
北の体をマッサージして全身にキスをし、性器を弄り始めたという。
引用元:文春オンライン
こう語る北公次さんの当時の心中は
想像もつかないほどの絶望的な出来事であったと感じます。
北公次さんは、4年半もの間
ジャニー喜多川氏と一緒に暮らしていて、
それまでの期間、毎晩のように体を求められたと語っています…
北は4年半も毎晩のように
性行為を求められたと振り返っている。
ただ、異性愛者である北にとって、
「毎夜のジャニーさんの愛撫(あいぶ)はまさに生き地獄だった」という。
引用元:文春オンライン
言葉に、できないです…
まとめ
若い頃、北公次さんは非常にかわいらしい顔立ちのイケメンで
順風満帆な人生を歩んできたように思えましたが、
それとは真逆といってもいいほど
壮絶な人生を歩まれてこの世を去ったことがわかりました…
晩年の北公次さんは、若い頃とはまた違う
重い人生を必死で生き延びてきた苦労や経験が
凝縮されたような表情をされているように自分は感じます。
若い頃から、非常に波瀾万丈な人生を歩まれた北公次さん
その生涯に、自分はいろんな思いが感化された次第です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
それでは次回もまた
よろしくどうぞ
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